74話 どうにもならないこともある

「何なんだ、今のは……」

音と風がおさまり、アサトクナが恐る恐る身を起こす。

「おや、水蒸気爆発をご存じありませんか?」

「水蒸気……? なんだそりゃ?」

彼らが知らないのも無理はない。料理は焼くと煮るしかしないし、高温の物質に水を注ぐこともしない。

火山でも近くにあれば別なのだろうが、幸か不幸かそんなものもない。いや、生活するうえではない方が幸いだろう。

焚火を消すのに水をかけても、そんな大爆発を起こしはしないのだから、全く見たこともないわけではないのだが、それが水蒸気爆発であるという認識には至らないのは日本人でも同じなのだから仕方がない。

「鍋に水を入れて火にかけるとどうなります?」

「お湯になるだろ。」

「そのまま火にかけていると?」

「……沸騰するだろ。何が言いてえんだ?」

「まあまあ、さらにそのままにすると、どうなるか知ってますか?」

「水がなくなって、鍋がダメになっちまうだろ。」

アサトクナに代わってタナササが答える。

「高温の物体に水をかけると、それが一瞬にして起こります。」

裕は分かりやすく説明しているつもりなのだが、『紅蓮』には全く伝わっていない。エレアーネも「何が何だかわからない」と言いたげな表情だ。

そもそもの話として、気体液体固体の三相というのも知らないのだ。水、というか液体が気化すると、その体積は大きく増えて何十倍から何千倍にもなる、ということも。

「ええと、水が沸騰したら何になるか分かりますか?」

返事はない。

「うおおお、そこからか……。すみません、時間がかかるので、説明は後にします……」

裕はぐったりと、亀の方に向き直る。

大量にかけたはずの水は、そのほとんどが気化し、残っているのは小さな水溜り程度だ。

そして、何をしてもビクともしなかった足が、大きくえぐれている。

「風魔法で、周辺の熱気を吹き飛ばしてもらえますか?」

作業の邪魔になる熱気と臭気を吹き飛ばし、えぐれた箇所からウロコをどんどんと剥がしていく。というか、ナイフで肉ごと切り取っていくと言った方が正しい。

高熱によって化学変化でもおこしたのか、大きく露出した肉からは酷い臭いはしない。

もっとも、周辺の足や胴体からは変わらず酷い腐臭が漂ってくるのだが。

だが、調子に乗ってウロコを取っていくと、凄まじい臭いが鼻を衝く。数十センチも離れると熱の影響はなかったようで、生肉とそれの腐った臭いが吹き荒れる。

むき出しになった肉の臭いは凄まじい。口と鼻を布で覆っているが、そんなものは焼け石に水、気休めにしかなっていない。

「だめだあああああ!」

全部で十四枚のウロコを取ったところで、裕はその場から逃げ出した。

「うぇぇぇぇ。」

二十メートルほど離れたところで地面に這いつくばり、涙を流しながらえずく。

裕と入れ替わりでウロコ取りに行ったホリタカサは「臭ええええ!」とひたすら叫びながらナイフを動かしていく。

だが、それも長くは続かない。一分ほどで限界に達したらしく、やはり涙を流しながらその場を離れる。

その後も交代しながら作業をするが、二巡で心が折れたようだ。

「もう、止めにしようぜ……」

力なく言うアサトクナに、裕もさすがに反論する気がしなかったようだ。重力遮断を百パーセントにして崖の上を目指す。

「なあ、気になってたんだけどよ。」

崖を登りながら、ヨヒロがふと口を開く。

「あれって、竜なんじゃねえか? お伽噺だと、竜のウロコは鉄よりも硬いって言うじゃねえか。」

『紅蓮』は今まで竜など見たことがない。というか、このエウノ王国のハンター全体でも、誰も見たことがないのではないだろうか。

少なくとも、この地域では人と竜の生息域は、完全に離れている。簡単に境界を越えて行けるのは裕だけだ。

「本当に竜のウロコなら、結構な値段になるはずだぞ。アライじゃ売れんな。」

アライの鍛冶屋では、竜のウロコは加工できないだろうということだ。そもそもこの近隣では鉄などの金属が採れるところがない。金属製品は完成品を仕入れてくるのが基本で、鍛冶屋はほぼ修繕が専門なのだ。

「王都に行けば、加工できる人くらいいるんじゃないですか?」

裕もアライの鍛冶屋にどうにかできるとは考えていない。どうにもならなかったら、近いうちに王都に行くのだから、そこで売れば良い。そんな魂胆である。

「王都にいるかは分からんが、買い手はつくだろう。だが、いくらで売れるのかは正直全く分からん。」

アサトクナも竜のウロコなど売ったことも買ったこともないのだ。どれ程の価値を持っているのかは見当もつかないと肩を竦める。

崖の上り下りは結構時間がかかる。垂直移動は、森の上を走るようにはいかないものだ。岩壁を離れて空中に放り出されてしまうと身動きが取れなくなってしまう。

バラバラに飛んでいってしまわないように、互いに紐で繋いでいるが、気を付けて足並みそろえて進んでいこうとすれば、どうしてもスピードは落ちてしまうものだ。

三分588ほどかけて登り、森の上に出ると全員ほっとしたように深呼吸をする。

「上は空気が美味しいですねえ。」

「あの下が最悪なんだよ。」

ろくに陽の光も差し込まない谷底は、ただでさえじっとりとまとわりつくような嫌な空気だ。そこに酷い悪臭が加わっている。長い間潜っていれば気も滅入るというものだ。

気が狂ったような大木が密生する魔窟のような森も、その上は静かで平和なものだ。陽は燦々と降り注ぎ、肌を撫でる秋風は心地が良い。

「じゃあ、帰りますか。」

大きく伸びをした後、太陽や山の位置から方角を確認する。枝に腰かけて休んでいたエレアーネや『紅蓮』も立ち上がると、裕は重力遮断を走行モードに切り替える。

休憩時は九十パーセント遮断、樹上走行時は八十パーセント遮断だ。なお、地上走行時の遮断率は四十パーセントということになっている。重量のある荷物を運ぶときはその限りではないが、それくらいにするのが最速で走れるらしい。

裕は真っ直ぐに町を目指して走る。途中で見つけた木の葉を摘んだり、木の実をもいだりはするが、狩り行くという考えはないようだった。

だった、なのだ。

森の端はもうすぐそこというところで、裕は突如「止まってください」と全員に制止をかけた。

「どうした?」

「いま、悲鳴が聞こえませんでしたか? 念のため確認します。」

そして、大きく息を吸い込んで叫ぶ。

「助けが要るなら返事をしてくださいッ!」

裕の声が森の木々に吸い込まれていった直後、全員に聞こえるように「助けて」と返ってきた。

「あっちです。」

裕が駆け出していったのは南西方向。エレアーネと紅蓮もすかさず後を追う。

「いた! オークが、三、四、結構いるよ!」

怒号とも悲鳴ともつかない声が聞こえてくるなか、エレアーネは声の主を見つけて指を差す。

「オークの殲滅はお任せして良いですか?」

「構わん。」

「では、行きますよ。」

裕は重力遮断率を落として、木の隙間から地面へと飛び降りる。

紅蓮とエレアーネもそれに続き、全員が着地したのを見計らって裕は重力遮断を解除する。

「くたばれ!」

アサトクナが着地したのはオークの手前二十数メートル。魔法が解除されて体が一気に重くなったのを気にもせず、一気に森の中を木々の間を駆け抜けて槍を繰り出す。

狙い違わず穂先はオークの首を大きく抉り、さらに次の標的へと突き進む。

その左右をすり抜けて、ホリタカサとヨヒロが突進して力任せに斧を振り抜くと、オークの首が二つ飛んでいく。

死体となったオークの向こう側へとタナササの放った矢が奔り、若いハンター達へと棍棒を振り上げた一匹の背中に次々と突き刺さる。

エレアーネは光の盾を張り巡らせ、ハラバラスは最初から第三級の治癒魔法の用意をしている。

ものの数秒でオーク六匹を蹴散らし、戦い、いや、一方的な殺戮は終わった。

ちなみに、裕は何もしてない。何かをする暇もなく『紅蓮』の前衛三人がオークをボコり終えてしまったのだ。

「深入りしすぎだ! 身の程を考えろ!」

治癒魔法をかけつつも、ハラバラスは怪我をしたハンターたちに怒鳴りつける。

現在地は、森の結構奥の方だ。木々の枝の密度が増し、辺りは薄暗い。

オークと対峙していたのは、どう見てもハンターになったばかりの、若い、というより幼い七人組だった。

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