71話 岩竜

「こっち見てますね。」

「すっごい見られてるね。」

少しずつ、少しずつ慎重に岩壁を降りていく二人を、谷底のど真ん中に陣取る八足亀が睨みつけている。

谷底の空気は冷たく、湿っている。ゴツゴツとした岩場に生えているのは苔ばかりで、木など一本も見当たらない。

東西方向に長く走る亀裂は、夏場の朝と夕方ならば辛うじて僅かな時間だけ陽の光りが届くだろうが、それでは植物の生育には不十分なのだろう。

というか、あの亀は一体何を食べて生きているんだろう?

そんなことはさておき、裕とエレアーネはついに地底に下り立つ。

亀までの距離、約百メートル。

重力遮断の射程外だが、そんな時は裕は迷わず陽光召喚を放つ、かと思いきや、やっぱりやめた。

「エレアーネ、光の盾を。いつでも逃げれるように上は開けて、前と横を囲むようにお願いします。」

裕の指示に従い、エレアーネは光の盾を並べる。何重にも張り巡らせた光の盾は、かなり強固な壁になる。

地の底で光り輝く場を作りだしたことで、亀が反応する。

ゴハオオォォォ! ! と咆哮を轟かせ、激しく足を踏み鳴らす。

が、裕はそんなことでは動じない。

いや、実は内心ドキドキなのだが、そんなことはおくびにも出さない。

炎熱召喚魔法を立て続けに八足亀に向けて投げ放つ。射程距離はギリギリだが、そんなことはお構いなしだ。

眩い光と熱に興奮し、八足亀はさらに足音高く、裕たちに迫る。

八足亀は興奮しながらも慎重さを残していたようだ。無闇な突進はせずに様子を窺うように近づいてくる。だが、それこそ裕の思うつぼだ。

射程内に入った瞬間、重力遮断が八足亀の体重を消し去る。

「な、何だとォォォッッ!」

八足亀は変わらず足音高らかに歩いてくる。

「また効いてないの?」

「そんな……、いや、効いています。爪です! あの爪で地面を掴んで歩いてるんです! なんて奴だ! 来る前に逃げますよ!」

目くらましの光りを放ち、裕とエレアーネは揃ってジャンプする。重力遮断を百パーセントにすれば、一気に十数メートルの高さまで跳び上がれる。八足亀のサイズから察するに、その高さにまで行けば安全だろうと思われる。

裕たちが離脱したことに気付いているのかいないのか、亀は変わらずジグザグに威圧するように光の壁へと近づいて行く。

そして、長い首を振り、光の壁に頭突きをかました瞬間に、エレアーネの第四級水魔法が亀を襲う。

「き、効いてない⁉」

「ええええ! どうするのこれ!」

亀の甲羅と鱗の前に、水の槍はただの水滴と化したのだ。

「逃げます! 足場の盾を!」

裕とエレアーネが光の盾を蹴った直後、亀も勢いよく地面を蹴った。

「ほぎゃああああ⁉」

想定外の亀の行動に、裕も的確な指示ができない。亀の甲羅に跳ね飛ばされて二人は宙を舞う。

「あーれーーー!」

裕とエレアーネは、お互いにがっしりと掴まりあいながら上へと吹っ飛ばされていく。二人が離れ離れに宙を舞っていけば、最悪、エレアーネには墜落死以外の道がなくなる。

怖いからではなく、明確に危険だから、咄嗟に互いに手を伸ばしているのだ。

そして、亀もまた上空に向かって飛んでいく。

岩壁に何度かぶつかりながらも、確実に亀は上昇していく。裕たちもそれに並行してぐんぐんと上に登っていく。

亀が大地の裂け目から飛び出すのに一分もかからない。

「ここらで十分でしょうかね。落ちろ!」

裕は魔法を全解除すると、亀も裕たちも再び惑星の重力に囚われる。

みるみると上昇速度が遅くなり、下降に転じる。

そのタイミングを逃さずに裕は自分達だけに重力遮断を再度発動させる。もちろん、亀の方は地底に向かって恐ろしい勢いで加速していく。

一千メートルの自由落下だ。地面に叩きつけらる速度は秒速百メートルを優に超える。いくら頑丈な魔物でも、これで無事でいられることはないだろう。

例えるなら、最高速近くの新幹線に跳ねられるイメージだろうか。

凄まじい轟音を響かせて八足亀が裂け目の底に激突した。

「どうなったか見えますか?」

「うーん、動いてるようには見えないけど……」

裕は魔法をコントロールして、ゆっくりと地底へと下りていく。

「あれは、どんだけ頑丈なんですか……」

裕の視線の先では、亀がひっくり返って動かなくなっている。いや、衝撃に耐えられなかったのだろう、足も首も尻尾も変な曲がり方をしている。

だが、その甲羅は割れたりすることなく、未だに亀の身体を覆っている。

「まだ生きてるのかな?」

「分からないですね。死んだふりかもしれません。目か口を狙って水の槍を撃ち込んでみてください。」

数十秒の詠唱の後、八足亀の目や口に、これでもかと水の槍が突き刺さる。

だが、それを外れた槍はウロコを貫くことはできずに飛沫と化す。

「なんで効かないの?」

エレアーネが不満そうに言うが、一千メートルの落下でも砕けない甲羅を持つ魔物なのだ。ウロコだってヤワなものではないだろう。

「持って帰ったら売れますかね? 陸棲のウロコ持ちの肉は不味いと言いますが……」

「どうやって肉とるの?」

エレアーネがナイフで足のウロコを突きながら首を傾げる。何をどう頑張っても、裕やエレアーネの刃では八足亀のウロコを貫いたり切り裂いたりはできそうにない。

「うぐおおお⁉ ︎ これは厄介にも程がありますね。目か口のあたりから剥がしてみましょうか……」

穴の開いている部分から作業した方がやりやすいだろうと、安易に首の先のほうにまわって、二人で顔を顰める。

「臭い!」

「あまり吸い込まないように。毒があります。」

裕が嗅いだだけで分かった毒性成分はアンモニアだ。どうやらこの亀は血中に高濃度のアンモニアを有しているらしい。

「こんなの食べられないよ?」

「でも、ウロコは欲しいですね。甲羅も恐ろしく硬いし、加工できるならいい素材になりそうなんですが……」

だが、どうしても臭いがひどくて近寄りがたい。

「このままでは埒があかないですね。まず、後ろから風の魔法を、その上で水の槍を口の中に撃ちまくってください。」

発動した風魔法は裕が引き継ぎ、エレアーネは続けざまに水魔法を見境ない勢いで亀の口に突っ込んでいく。

顎が外れたのか大きく開いた口の奥へとどんどんと槍が突きこまれ、ついに内側から喉を破り、外へと貫いた。

それでも魔法を撃ち続けるのをやめはしない。喉に開いた穴からさらに撃ちこみ、今度は首の背の方まで貫いた。

「これくらいやればウロコの一つや二つは取れるでしょうが……」

裕は無残な姿を晒す亀の頭に近寄り、傷口付近のウロコを毟り取る。

「臭い、臭い、くっさーい!」

僅か数十秒の作業で裕は音をあげる。

剥き出しになった八足亀の肉の臭いはそれほどに酷いものなのだ。

二人で頑張ってみても、十枚ほどのウロコを毟るのが精一杯だった。

「このまま放っておいたら、このあたりの魔物が肉だけ食べていってくれないですかね?」

「どうだろう? 腐りはすると思うけど……」

悩んでいても仕方がない。もう一枚だけ、と頑張ってから崖を登っていく。

地上に出ても、崖は続いている。もともと南北に続いていた崖が、この亀裂に繋がっているのだ。

裕たちは一気にその上にまで登る。

「森しかないよ?」

東の方に小高い山はあるものの、延々と広がる森に果てが見えない。

尚、西の方を見てもただただ緑が広がっているだけだ。

「むう。こっち側には狩場は無さそうですねえ。とりあえず、崖沿いに戻りましょう。」

崖沿いといっても、落ちると嫌なので数十メートルは離れて北へと走っていく。

一時間ほど走っても、結局何も変わりはしなかった。

裕は諦めて崖を下りて帰り道を探す。

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