第29話 イフリート、召喚
「何これ?」
櫛を手渡され、エレアーネは首を傾げる。
「櫛も知らないのですか! 髪を梳くのですよ! 貸してみなさい。」
エレアーネの手から櫛を取り戻し、後ろを向かせると、毛先の方から梳いていく。
だが、長年何もせず、ボサボサになっている髪は一筋縄ではいかない。
「ちょっと、痛い! 痛いってば!」
半分どころか一割ほども終わらないうちにエレアーネは音を上げる。浮浪児の身だしなみを整えるのは簡単にはいかないようだ。
「自分で少しずつやっていきなさい。髪が整えば少しはその見た目もマシになるでしょう。」
「やらなきゃダメ?」
「浮浪児のままがいいならやらなくて良いですよ。」
裕に冷たく言われ、渋々と櫛を手に髪をほぐしていく。
エレアーネ自身、浮浪児と蔑まれるのは嫌なようだ。
「あ、これも買ってしまいましょう。」
裕は小型の竹編のバッグを買うと、昼食用のパンや果物を買って入れていく。
そして、さっさと商業組合で税の納付をして出店許可証の返却を済ませる。税引後の粗利は銀貨四十三枚に銅貨百八十一枚だ。詳しくは後書きの計算を読んでくれ。
持ってきた岩塩は、まだ半分ほどは残っているので、さらに銀貨四十枚ほどの収益を見込めることになる。
「次はいつ来るんですか?」
「塩の売れ行き次第ですね。」
裕は明言は避けて答えておく。期待させておいて、何かあって遅れるようなことになったら恨まれることになる。
できない約束はしないし、予定が決まっていない未来については未定としか答えない。裕はそういったところは基本に忠実だ。
用事を済ませると、町を出てさらに北へと向かう。その先にはネグアミという町があると言う。大人の足で一日と言うのだから、裕たちならば夕方には到着できるだろう。
お弁当を手に、街道を軽快に走っていく。
畑を越え、丘を越えて軽快に走っていたかと思ったら、川を越えたところで裕は突然足を止めた。
「止まってください、エレアーネ!」
あまりにも唐突のことに、勢い余ってたたらを踏む。
「どうしたの?」
「あれ、何のフンだと思いますか?」
裕の視線の先の岩場には、動物のフンと思しき物体がどどんと鎮座している。乾燥しておらず、まだ、排泄からそう時間が経っていないようだ。
「そんなの分かんないよ。って、随分多くない?」
「多いですね。これを出したやつはかなりの大きさだということでしょう。」
「この前のイノシシくらい……?」
「いや、あれよりは小さいと思いますけどね。ですが、気を付けるに越したことはありません。」
言いながらも裕は油断なく周囲を見回す。
川原は比較的見通しが良いが、その先の森の中の様子まではわからない。
「近くにはいなさそう」
「ヨシノ、あれ。」
裕の言葉を遮ってしまい、エレアーネが慌てて口を塞ぐ。
「どうしたのです?」
「たぶん、矢だよね?」
エレアーネが指した先には、確かに矢が二本転がっている。
「これも、新しいですね。」
「さっきのフンの獣をハンターが狩っているのかな?」
エレアーネは楽観的に言うが、裕の考えは違う。
――
狩れていない。
どう見たって、この矢は獲物に刺さっていない。
躱されたか、防がれたか、そもそも効かなかったか。
単に落としたという可能性もあるが……
くそぅ。この石と岩じゃ足跡もわからん。どっちへ行った……?
上から偵察してみるか?
いや、だめだ。この矢が万が一敵のものだったら、狙い撃ちされる可能性がある。今ここで飛ぶのは危険すぎる。
ん? エレアーネの治癒もあるし、もしかしたらいけるんじゃないか?
ちがうちがう、ダメだダメだ。怪我をする前提の作戦は絶対ダメだ。
――
裕は眉間に皺を寄せて考え込む。
「どうするの?」
「道の先は森でしょう? 森の中を歩きたくはないんですよ。私は森の中では弱いですからね。」
裕は苦い顔をするが、エレアーネは不思議そうに首を傾げる。
「中? 上行くんじゃないんだ?」
「上? ええええあああああああ! エレアーネに、エレアーネに指摘されるとはああああああ!」
エレアーネの指摘に、裕は頭を抱えて絶叫する。
「ええい! レビテーション!」
そして、森から飛び出してきた大きな影に向かって魔法を放った。
飛び出した勢いそのままに、空高く舞い上がっていったのは一匹のオーガだった。
「なんだ、オーガですか。」
裕は背負った荷物を起き、山刀を抜くと、オーガに向かって走っていく。
「エレアーネは見張りを! 他にもいるかもしれません!」
「わ、分かった!」
オーガはパニックになり、悲鳴とも雄叫びともつかぬ喚き声を上げながら墜落する。
そこに裕は石を投げつけて注意を引こうとする。
そして、オーガが振り向いた瞬間に裕の必殺技が炸裂した。
「太陽拳!」
やめなさい。それはダメなやつだ。レビテーションといい、元の魔法の名前は一体どこへ行ってしまうのやら。
ともあれ、突如眼前に現れた強烈な太陽の光に灼かれ、目を押さえながらオーガは絶叫する。隙だらけ、なんてものではない。完全に無防備と言っても差し支えないだろう。
そこに駆け寄り、裕はオーガの右足アキレス腱目掛けて山刀をフルスイングする。
「その足では逃げられまい! ここなら使えるのだよ! イフリート召喚!」
裕は叫ぶが、別にイフリートは来ない。
というか、そんな魔法は無い。いや、むしろ、イフリートなんて存在しない。
裕が放ったのは単なる炎熱召喚魔法だ。草木のある場所では延焼が怖いため使えないが、岩場でならば遠慮なく最大火力で使えるのだ。
オーガの太ももの内側から股間にかけて、あっと言う間に焼けただれ、煙が上がり始める。
「ギィィイエアエアアアアアアアア!」
一際大きい悲鳴を上げてオーガは悶え苦しむが、裕がそんなことで手加減などするはずもない。
「さらに召喚! 炎熱地獄を受けよ!」
オーガの肩から背中にかけての広範囲が焼かれていく。オーガはもはや動くのもままならないようで、手足を痙攣させながら呻き声を上げているが、それも長くは続かない。
一分少々でオーガは完全に沈黙した。
というか、黒煙を上げて燃えている。腱を切って動けなくしてから焼き殺すとは、何と恐ろしい攻撃をするのだろうか。
エレアーネもドン引き、してはいなかった。
言われたとおりに、オーガには目もくれず、他に敵が出てこないか必死に周囲に目を配っていたのだ。