19話 無双するほど余裕はない

エレアーネは焦り、悲鳴を上げるが、裕は慌てない。

裕の重力遮断の射程範囲は百メートル足らずだが、森までの距離が百メートルもない、つまり、森から出てきた時点で裕の射程範囲なのだ。必殺の魔法を放てば良い。

「重力遮断、百パーセント!」

それまで力強く地面を蹴っていたイノシシの四本の脚が、二度と地に届くことがなくなる。重力を完全に遮断された巨大な体躯は速やかに浮き上がり、勢いそのままに崖に向かって突っ込んでいく。

「ちょっとまてこっち来るぞおおお!」

「上に! とにかく上に逃げます!」

「うおおあああ!」

必死で跳び上がったところで、デタラメに暴れるイノシシの尻に撥ねられて、七人は壁に向かって吹っ飛んでいく。

その最中にも裕は左右に紐を投げて、仲間がバラバラにならないよう繋ごうとする。

必死に紐をつかみ、体勢を整えている中で、轟音が響き渡る。

等速直線運動そのままに、イノシシが崖へと激突したのだ。体重が十トンを超える巨大な獣が衝突したのだ、ただ事では済まない。

だが、それを確認する間もなく、七人も崖へと叩きつけられる。

「ぐおあ!」

「痛え!」

そんな悲鳴で済んでいるということは、大したダメージは無いのだろう。

『紅蓮』の五人はすぐに周囲を確認する。

一瞬遅れて裕が、さらに数呼吸の間を置いてエレアーネが苦しそうに周囲を見回す。

「一旦集まります!」

裕に言われるまでもなく、『紅蓮』の五人は紐を手繰って近づいてくる。全員が裕の放った紐を掴んでいる辺りはさすがベテランと言ったところか。

エレアーネも途中でアサトクナに回収されて、合流する。

「なるほど、たしかに治癒魔法は使えるようだな。」

岩肌に激しく体を打ちつけてしまったようで、エレアーネは苦しそうに自分に治癒魔法を使っている。

「ヨシノは無事か?」

「この程度でどうこうなるなら、とっくに死んでますよ。」

軽口を叩くが、裕はあちこちに擦り傷を作っている。

「イノシシは……?」

「動かねえな。」

「あれはイノシシなのか?」

『紅蓮』は冷静に対応しているのに対し、エレアーネは平静ではいられないようだ。

「あんなバカデカイのがイノシシか? みたこと」

「静かにしろ。」

興奮のあまり叫び声を上げてしまうエレアーネを睨み、ハラバラスが低い声で制する。

「気を失っているんでしょうかね? 死んでいるようには見えないですが。」

「間抜けな話だが、これで終わりなら楽なものだ。」

七人は壁面を伝い、イノシシの真上まで移動する。

「とどめ、刺せますか?」

「一撃じゃ無理だな。」

顔を見合わせて、『紅蓮』は五人そろって下へと向かう。

「あなたはここで待機です。」

エレアーネには動かないように指示をして裕も地面へと下りる。

「さて、いくぞ!」

「おうっ!」

アサトクナの号令でホリタカサを先頭に、一列に並んで武器を構え、順に突進していく。

イノシシの首筋、同じところを目掛けて、斧が剣が振り下ろされ、どんどんと傷を深く抉っていく。

『ブファアア』

目が覚めたのかイノシシが激しく鼻息を鳴らす。だが、裕の方が早かった。

「終わりです!」

裕は既にイノシシの動脈を見つけていた。

紅蓮が切り開いた傷の中に半分埋まりながら、山刀を突き立て、血管を抉り切る。

「うぅっきゃああああ!」

吹き出てくる大量の血に吹っ飛ばされて、裕は地面を転がる。

あまりの血の量に、紅蓮も全員血まみれだ。

「離脱! 上へ!」

イノシシに致命傷を与えたとはいえ、苦し紛れに暴れようとするイノシシの側にいては危険だ。通常サイズならともかく、馬車よりも大きいようなイノシシなのだ。間違って下敷きにでもなれば、命は無いだろう。

十数メートル上に退避して窺っていると、イノシシが完全に力尽き、ピクリともしなくなる。

「周りはどうですか?」

「動きは無いな。」

「ああ、何かがいるのは確かなんだが、姿を見せねえ。」

紅蓮は周囲の森から目を離さない。血の臭いで凶暴な肉食獣が出てきても不思議ではない。

「重力遮断、百パーセント。」

音もなくイノシシの巨体が浮き上がり、ゆっくりと加速しながら上昇を続ける。

「重力遮断、九九・〇五パーセント。」

何度か実験して見つけた、重力と自転遠心力がつり合うポイントだ。

「とおりゃあ!」

裕は掛け声とともに、浮かんできたイノシシに跳び蹴りを食らわせる。

「押してください! 持って帰るのですよ!」

裕の指示に苦笑いしながら、紅蓮も次々とイノシシに跳び蹴りを食らわせていく。

ただし、ハラバラスだけは周囲の状況を注意深く窺っている。

凶暴そうな獣が出てきたら、即刻上空へ退散する手はずだ。

だが、オオカミの化物が出てきたりすることもなく、樹高よりも高く浮き上がり、イノシシもゆるゆると西へと流れていく。

「あまり離れすぎると魔法が切れてしまいます。最後はみんなで一緒に行きますよ!」

「了解。」

七人全員で崖を蹴り、イノシシへと飛びつく。

そして、裕はいそいそとイノシシの後足に紐を結び付けていく。

徒歩程度の速度で流れ、一分もすれば、完全に濃い緑の上にまで至る。

「頑張って加速しましょう!」

裕はイノシシから降りて、イノシシに結び付けた紐を手に枝を必死に蹴る。

「エレアーネは周囲の警戒を。特に風下の方だ。血の臭いに引かれてきている獣がいないか見張っていてくれ。」

ハラバラスが指示を出し、紅蓮もイノシシを運ぶために樹の上に降りていく。

さほどの腕力もなく、重力遮断にもそれほど熟練していないエレアーネでは、イノシシの加速の役には立たない。ならば見張りに使った方が良いという判断だ。

「ヨシノ、休憩をしなくて大丈夫か?」

三時間頑張っても、まだ森の端は見えてこない。往路では二時間半ほどで着いたのだが、さすがにこの大荷物では同じようにはいかない。

「私は大丈夫ですよ。みなさんこそ平気ですか?」

「何で行くときは休憩してたんだよ。」

「いえ、これに慣れていないみなさんは大変かなと。」

裕は平然と答える。初めての人もいるし、少々気を遣っただけだそうだ。

さらに一時間ほどかけて、ようやく森を抜ける。

「あと一息です! エレアーネは後ろの警戒に全力を注いでください!」

「正念場だ、油断するな!」

裕も紅蓮も、最後の一息、ゴールが見えた瞬間が最も事故を起こしやすいことを知っている。

そして、難所を抜けた瞬間などは、どうしても気が緩んでしまうものなのだ。

背の高い草がまばらに生えるゴツゴツとした荒れ地を進み、西へと向かう。

丘を登り、頂上付近に差し掛かろうというころ、エレアーネが声を上げた。

「獣が来る! オオカミだ!」

「数は?」

「八、十、いっぱい!」

イノシシの血はほぼ止まっているものの、オオカミの鼻はその臭いを捕らえていたようだ。

オオカミたちはどんどんと森から飛び出して、一気に荒れ地を駆け抜けて迫ってくる。ゆるゆると進むイノシシにはすぐに追いつくだろう。

「ちょっと行ってきます。」

裕がイノシシの足を駆け上がり、肩の上から見下ろすと、オオカミの群はイノシシに吼えかかり、牙を突き立てている。

いや、イノシシはすでに死んでるから意味がないのだが、オオカミとしては動いている獲物としか認識していないのだろうか。

「何をしているんですかあれは?」

「たぶん、イノシシに攻撃してるんじゃないかな。」

裕は困った顔をしてエレアーネに聞いてみるが、彼女もやはり困り顔である。

「レビテーション!」

突如裕の呪文が変わった。重力遮断はどこいったんだよ。

だが、何も問題なく魔法は発動するようで、オオカミが纏めて浮かび上がる。

「どりゃあ!」

オオカミの背後に回り込み、次々と蹴り上げていく。

蹴ると同時に重力遮断を百パーセントにしているので、軽快に上空に舞い上がっていく。

後は適当に落下死するだけだ。

「はい、終わりー!」

ダッシュでイノシシに追いつくと、その前方へと出て行き、再び紐を握ってイノシシを引っ張りはじめる。

「どうなった?」

「あれです。」

裕が指差した天空に、幾つかの影が並んでいる。

そして、それが道の前方にどんどん落ちてきた。

『ぎゃわん! ぎゃわん! !』

と鳴き叫びながら落っこちていくが、もはや狼の死は確定している。

地面に叩きつけられたオオカミは、もう、ピクリとも動かない。

「あれ、どうする?」

「持って行くの面倒くさいんですよね。近くにお知り合いとか見当たらないですか?」

唸りながら探すも、道を歩く者はいるのだが、残念ながらオオカミの運搬を頼めるような知り合いは見当たらないらしい。

「仕方がありません。あれは諦めましょう。道端に落ちていれば、誰かが拾っていくでしょう。」

そして、日が傾いてきた頃、ようやく町の門の前に到着した。

感想・コメント

    感想・コメント投稿