第19話 警部補 沢田から見て
「困った子がやってきた。また指導を頼めないだろうか」
少年課からそう連絡を受けてやってきてみると、その困った子は珍しいことに女の子だった。
「ちょっと、付き合ってくれるかい? 僕は沢田尚紀だ、君は?」
笑顔で言うと、彼女は心底面倒臭そうに「伊藤芳香だ」とだけ答える。
思っていたのと随分違う反応だ。私に指導をと求めてくる子は「あぁ?」「何だテメェ?」などともっと反抗的で暴力的な反応をするのが常だ。
「君は血の気が多いんだってね」
警察署の廊下を歩きながら話しかける。
「一般的にいえばそうなのだろうな」
思った以上に理性的な受け答えをする。話がそれ以上続かないのは、彼女に話をする意思がないからだろう。その程度のことは想定の範囲内だ。ここに連れて来られる子どもは、多くの場合大人を信用していない。
「ここだ。土足厳禁で頼むよ」
言って戸を開けたのは剣道場だ。靴を脱ぎ一礼して入ると、彼女も靴を脱いで入ってくる。そして室内を見回すと不愉快そうに舌打ちした。
「まさかとは思うが、剣道で血の気を発散しろとか言うのではないだろうな?」
「そのまさかだけど、不満かい?」
「くだらん。剣道家ごときが私の相手をできるわけがないだろう」
非常に不満そうに言いながら伊藤さんは道場の隅に置いてある竹刀を取る。
「来るが良い。二、三人まとめてで構わんぞ」
びっくりするほどに自信満々だ。それを聞いて、稽古中だった金田巡査部長が横から声を掛けてくる。
「防具も着けなさい。イキがっていると痛い目を見るぞ?」
「はっ。竹棒遊びにそんなものは必要ないだろう。何なら真剣を持ち出してくれて構わぬぞ?」
「君、調子に乗りすぎだ。沢田さん、ちょっと相手してやって良いか?」
「怪我をさせないようお願いします」
金田巡査部長は少々お腹が出っぱってきているものの、剣道は四段の腕前だ。ちょっと棒を振り回すのに自信がある程度では敵わない相手だ。ベテランの類であるし、着替えの間は任せてしまっても構わないだろう。
そう思っていたのが大間違いだった。手早く着替えて道場に戻ると、既に金田巡査部長は床に伸びていた。その横で岡林巡査が身体を揺すり呼びかけているが、全く目を覚ます様子はない。
「この様子だと救急車を呼んだ方が良いと思うぞ? 倒れた時に頭を打ったのかもしれないし、あまり動かさない方が良いかもしれん」
竹刀を担ぎ、呆れたように伊藤さんは言う。彼女の方は息も服も全く乱れておらず、恐らく簡単に勝負がついてしまったことが窺える。それよりも、金田巡査部長だ。面から覗いてみると口から泡を吹いているように見える。
「田村巡査、事務室に行って119番してくれ。それと、担架だ。応援を何人か呼んでくれ」
オロオロと見ているだけの若手にはさっさと指示を与えて動かしてやる。狼狽えてしまう気持ちは分かるが、警察官ならば即座に救護や応援要請に動けるようになっておくべきだろう。応急処置などの訓練はもっとするべきなのかもしれない。
とは言え、僕も金田巡査部長が簡単に子どもに負けるとは考えていなかったし、ましてや気絶させられるなどとは想像もしなかった。
いくら若いとはいえ、伊藤さんの方があれだけ自信満々だったのだから、本当に高い実力を持っていると想定しておくべきだったのだ。
「そこのおっさんは弱すぎて話にならんかったぞ。まさか、あんたもその程度ではあるまいな? 発散させてくれるのだろう?」
酷く嫌味な言い方だ。非常に悔しいが、自信の裏にある実力を読み取れなかった私や金田巡査部長に落ち度がある。
面を外した金田巡査部長の方は数人でやってきた救護班に任せ、防具を着ける。最後に面を被り竹刀を握ると、腕組みをして救護班を眺めていた伊藤さんがこちらに向き直る。
「来るが良い。格の違いというものを教えてやる」
生意気を通り越し、傲岸不遜に言い放つ。にもかかわらず、立ち振る舞いには微塵も油断している様子がないのが恐ろしいところだ。
今まで何人も不良と呼ばれる子どもたちに相手にしてきたが、生意気な態度を取る子は大抵隙だらけで一対一ならば簡単に抑え込むことができていた。
この伊藤芳香という女の子は中学生と聞いているが、嘘だと叫びたい。右手に握る竹刀こそ外に向けてぶら下げているが、立ち方、視線は私の動きに即座に対応できるよう身構えていることが分かる。
「いざ、勝負だ」
中段に構えてそう言うと、伊藤さんは僅かに重心を落とす。
何故構えないのだ?
そう思ったのも束の間、先ほどからずっと構えを崩していないことに気付いた。
「そうか。古流か」
剣道にはいくつかの構えがあるが、現在の剣道には片手下段という構えは無い。単純に不利であるため、下段の構えを用いること自体がほぼ無い。剣を下段に構えるのは、ど素人か古流剣術を修めているかのどちらかだ。
少し広めに間合いを取る伊藤さんの上半身は無防備に見えるが、上からの攻撃を受けいなす技術は持っているのだろう。
それに相対してみると、非常にやりずらい。恐らく金田巡査部長は、見たこともない構えや剣筋に対応しきれなかったのだと思われる。
「どうした、来ないのか? 私は気が短いんだ、早くしてくれ」
どう攻めれば良いのかと考えていると、催促の言葉が飛んでくる。向こうの出方が全く分からない以上、迷っていても仕方がないのも確かだ。
踏み込んで宙を滑らせるように面へと向けて竹刀を突き出す。
次の瞬間、竹刀が下から上へと弾かれた。妙に間合いを広くとると思っていたら、最初から竹刀を狙っていたのだ。反射的に竹刀を握る手に力を込め、吹っ飛ばされてしまうのは免れたが完全に打突の体勢は崩されてしまっている。
一度下がって構えを戻して立て直したいが、それよりも早く突進からの体当たりが容赦なくぶつかってくる。
竹刀を押し上げられたまま鍔迫り合いすらできない状態ではどうしようもない。完全に不利な体勢に持ち込まれてしまっている。正面からの圧に対して踏ん張り押し返すのではなく、後退して身体を離すとすかさず面を思い切り右から叩かれた。
「ぐッ⁉️」
下半身とは逆方向に首を捻じられて、思わず声に出てしまう。そして、間をおかず竹刀を押す圧が消え、痛烈な一撃が面のズレた側頭部を叩いた。
「面だ。これで一本だろう?」
よろめき振り向いたときには既に切先が喉元に突きつけられている。
「すごいな。君は」
これはもう認めざるを得ない。これでも僕は剣道は五段だ、決して弱いつもりはない。防御も反撃も全くできずに一本決められてしまうのだから彼女の実力は本物だといえよう。
「さっきのは柄当かい? 試合で食らったのは初めてだよ」
「そうなのか? 密着した状態からの攻撃くらい覚えておいた方が良いぞ?」
一体どのような戦いを想定しているのか、伊藤さんは刃の部分だけが剣の使い方ではないと力説する。確かに柄の部分で防ぐのも攻撃するのも反則にはならないはずだが、少なくとも僕はそれを練習したことなどない。だが、伊藤さんはそれを得意としているというのだから驚きである。
「もう一本、お願いして良いかい?」
彼女の考え方も技も完全に剣道から外れているが、反則なしで一本取られてしまったのだ。このまま下がってはいられない。
「まだ一人でやるのか? 二、三人まとめてで構わんと言っているだろう」
「今度は、君からの攻撃を見せてもらいたいのさ」
「ならばさっさと構えろ。一瞬で終わってしまうぞ」
伊藤さんの言葉に、竹刀を中段に構える。いや、違う。腕を引き竹刀を縦に持ち、上段と中段の中間のような感じに構える。
「ほう。少しは考えているようだな」
対する伊藤さんの構えは先ほどとは違い、諸手持ちにした竹刀は向かって右を向く。
「行くぞ」
踏み出すと同時に切っ先が持ち上がる。そして一直線に顔を目掛けて突きあがってくる。だが、竹刀を前に倒しながら突き込めば良い。それならば僕の方が早いはずだ。
がん!
正面に突きが叩き込まれ、激しい衝撃が首を襲う。だが、こちらの打突だって当たって……
「嘘だろ……」
仰け反った状態では見えづらいが、竹刀が手からすっぽ抜けていったのはハッキリとわかる。彼女の今回の行動は、剣道では見事な反則だ。相手の打突を掌で受け止め、そのまま竹刀を奪い取るなんて剣道では認められていない。
しかも、同時に顔面への突きを片手で放つのだ。実際に自分が受けながらも信じられない技だ。こちらは転倒をこらえるだけで精一杯である。
「くっそ……、金田巡査部長はこれを食らったのか」
「今のように反撃がなかったからな、直撃してしまったぞ」
僕の攻撃をいなすのに集中力を割かざるをえなかったため、突きの威力は半減しているらしい。それでも面がずれてしまっているし、もし防具を着けていなかったらどうなってしまうのかと思う。
「僕の負けだよ。一体、どこの流派なんだい?」
「我流だ。師匠は、まあいないと言ってしまって良いのかな」
四年ほど前に数時間だけ教わったことがあるというが、確かにそれくらいならば師匠だの流派を名乗るだのは気が引けるだろう。その何百何千倍もの時間を稽古に費やしているはずだ。そうでなければ、この強さに至ることはないはずだ。
「ところで、全然物足りないぞ。やはり二、三人でかかってこい。一人では話にならん」
稽古をつけてやるなどと偉そうに言うが、本当にやってみると三人がかりでも取り押さえるのが一苦労なのは困ったものである。しかも、様子を見に来た少年課の巡査部長に叱り飛ばされる始末である。